霧社事件の背景
日本の警察官(当時2名のタイヤル族警察官がいたほかは全て日本人警察官)が、地元のタイヤル族住民に対し固有の文化を無視した生活指導を行ったこと、材木を担いで運ばせるなど重い労務を課したこと、商取引の利益を中間搾取していたことなどが指摘されている。
蜂起の直接の原因といわれているのが、1930年10月7日に吉村克己巡査が原住民の若者を殴打した事件である。その日、吉村巡査は同僚を伴って移動中に、村で行われていた結婚式の酒宴の場を通りかかった。宴に招き入れようとモーナ・ルダオ(タイヤル族の村落の一つマヘボ社のリーダー)の息子、タダオ・モーナが吉村巡査の手を取ったところ、巡査は「其ノ不潔ナル宴席ヲ嫌ヒ拒絶セントシテ握ラレタル手ヲ払ヒタル拍子」にステッキで若者を2度殴打したという。侮辱を受けたと感じた原住民たちは吉村巡査を集団で殴打した(当時の警察側の公文書より)。 この殴打事件について警察からの報復をおそれた人々が、先手を打って蜂起したのだと言われている。
事件前から霧社は台湾総督府による理蕃政策の先進地域であった。それにもかかわらず大規模な蜂起がおこった。そのため台湾総督府は原住民に対する差別的な政策の方針を修正し、皇民化教育を加速してゆく。
原住民に対する皇民化では、思想教育と同時に、平地定住化と稲作農耕への切り替えという大きな転換が試みられた。霧社事件の生存者が移住した川中島(かわなかじま、現 清流部落)や、霧社でのダム建設のため立ち退きをさせられた人々が移住した中原(川中島に隣接)は、稲作適地であったため結果的に農業生産性が向上し、住民らの生活は以前よりも豊かになった。
また、天皇と国家に対する忠誠を示した者は日本人同様に顕彰されたので太平洋戦争時の高砂義勇隊には自ら志願して戦地に赴いた原住民が多くいた。一説によると霧社事件での山岳戦でタイヤル族がとても強かったため軍部が高砂義勇隊の創設を着想したとも言われる。こうした事例は映画『サヨンの鐘』にも描かれ、皇民化教育の成果として謳われた。
当時の日本社会においては台湾原住民の存在自体が熟知されておらず、雑誌等に興味本位にその風俗などが描かれる程度であった。霧社事件は台湾総督府に対しては強い衝撃を与え、原住民統治の抜本的な改革を迫るものであった。日本国内に対する衝撃もそれなりに大きなものではあったが、未開な民族が衝動的に起こした反乱といった認識が強かったと推測される。戦後、台湾は日本の統治下から離れ、日本では事件の存在そのものが忘れられていった。戦後の日本における霧社事件に対する評価には、偶発的な事件、警察統治に対する局地的な反抗、日本に対する植民地統治に対する抵抗運動など様々な捉え方がされている。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
霧社事件は日本時代後期における最大規模の抗日蜂起事件と言われています。
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